わかってるという考えの人と。

今日は、また雨です。いつも雨の時は、ナーバスになります。何となく、暗いという感じかな。きっとこれを昔まねをした絵まほがいると言うことです。

そこから、始まったと言うことです。それが時間がたったために今という状況があります。そこから、逃げていては、片付ける、または回避は永遠に無理です。それこそ、ひどくなり、絵まほのような悪魔、悪玉が多くなるだけです。それこそ、西洋の歴史と同じようになります。黒人と白人の対立から起こる、生活環境、生活の質ということです。だから、教育にも差が出てくるということです。それからでは遅いということです。これこそ、先生の質でしか助けることはできません。それも個別かもということです。例えるなら教室です。それ以外は無理でしょう。その組織でいるならなということで、外国では実話がありました。それで、そのお金もないひとの学校が、大学受験荷までいったという実話があります。それで、その先生は今は大学の教授になっています。

 

感動しました。まるで、私の父のような、偏差値ではないですが、生活、社会性において、感謝されていました。とくに不良の学校だったので、先生に会わなければ、という言葉、を昔よく聞いてました。遊びに来る教え子です。ちょむ、感動。それが、あるから今がある私です。というのもあります。それを知らなければ、ここまでは言えない、できません。それが私の業かな。

 

浄土とはそういうことみたいです。早くにいい縁を見つけての友としての心の差さえとでも言うのか、そう簡単荷は、良縁、縁の人には会えません。この状況のなかでの、現実、お酒を交わして、語り合うということができる幸せを早くにしないと、これこそ、カルマになります。それで、無に無にかな。父の場合。こんなに同じ考えの人で、会合ができたら、幸せだったのにです。あーあ。そのチャンスを失わない方がいいと思います。後悔するよりもです。それは、同じ考えである人だったら、あとから後悔するひとも、その相手も同じということです。同じ問題、心のなにかについて、語り、尊敬、ということができなくなります。教えてもらえない辛さ、というか心の思いには勝てません。いるときがはなです。悶々ですね。かわいそう、でも、それでもあって話せていたらと第3者としても、かわいそうと思います。なんだかやりきれません。だからじゃないけど、怒鳴るという感じかな。

 

これだけ、壊されているのですから、どこに己の縁がいるかわかりません。それによって、どうとらえるかの問題だけです。嫌なら、逆縁にすればいいだけです。

あとは器でしょうか?