これから。

今日は、海から帰ってきて少しは気分が晴れました。というより、波にそって泳いだので気持ちよかったです。ふと思い出しました。気持ちよかったです。大自然のところだと色々と書けます。さすが、人よりも自然が多いところは気持ちも晴れ晴れし、色々なことを考える時間には適していますね。また海では、昔おきの方まで行ったことがありますが、怖くて足が取られそうな感じがしたのですが、それでもじゃぶじゃぶと泳いでいました。がそれを思いだしたとき、反対におき降りも浜辺の方に戻ろうとしました。何故ならば、それ以降、震災が起こったからです。急に考えてしまい、昔は、と考えると浜の方に戻った記憶があります。その時は父と一緒でしたが、その数回は一人だったので、怖い感じがしたら、戻ることにしました。

 

やはり、自分の感性を大切にしていた方が、案外自分がより優れた感性の持ち主だったと言うこともあります。昔、電車の中江曽のような人に会いました。あなたのそばにいると体が暑くなると言うか、気が上がると話しかけられました。その人は霊性が自分で高いといわれ、夫婦でもベットは別にするときもあるなどと言われてました。

すごいなと思いました。霊感が強いのかなと思います。

そのような霊感も大切な親からの受け取りものです。それも自分ですから、昔とは違い、時代という意味ですが、多少なりとも楽なので、昔よりもはそうおかしくはないはずです。以前は歴史などでもあります。よって、自分を知ることも必要です。

 

これは仏教の教えであり、それを肯定することにより、間違った方向性にはいかないということです。これこそ、日本人の肯定であります。そうすれば、肯定しないがためにまちがったことをしてしまうということです。特に性欲も同じです。何故か、たちの悪い悪魔くんたちは、それを我慢させ、そして、壊してから、心か、もしくは教えで調教します。その自分の忍耐です。それにより、どこまで、我慢ができるかというより、いかに肯定するかです。我慢は密教において、必要はありません。それはある程度、完成されてからのことですので、完成されてからやるのとでは、もうその時は、すでに消化されていますので、完成も完成じゃないの両方です。それからでは、?こんな感じです。

 

密教は、本来なら、認められたものだけしかできません。それをやっているわけですから、ピンきりからというより、六道輪廻と同じです。それと、同じです。それで、教えが必要というわけです。しかし、その前に勉強はしておかないということです。やりながらは、無理です。下手すれば、魔境になります。