密教について。(意識について)

きょうは

運動の時と、座っている時の状態についてです。

使っている神経が違うので、机に向かっている時の状態と運動の時の状態は違います。

もし、机に向かっている時でしたら、できることも、運動している時はできません。

 

密教は本来、半かふざ、もしくは、けっふざを組んで、行うことです。だから、体を動かしながら、他に意識を集中しながらすることではありません。坐禅と言っても、奥は深いです。それに、スピリチュアルで、聞いた言葉でも、それは18年間していることなので、多少なりとは、おかしくなっている人もいます。本来の生活の中で、現実という言葉で表すと、言葉なくして、バカにしているという感じです。それを見えないところで、感じていますが、それを世俗では理解できなく、動揺もしくは、同意してしまう事がありますので、現実ならどういう状況かを考えたほうが自分の為です。簡単に言えば、夢遊病みたいなものです。しかし、この対処もあります。また、以前にも書いたように、自分の体の言葉を知らずして、無理をしてしまったからです。飽きているのに、疲れているのに、自分の体以上に無理をしているからです。意識の強さだけで体がついていけない状態です。これは少しづつもどると、ある時から、念が強くなりますので、それからまた、更に、修行が必要となります。限界以上なので、元に戻ったら、新道が壊れている状態でしかありません。だから、限界になると、病気になるのです。結局は密教も体を使って、テゥモをあげているのですから、栄養も取らないといけませんし、座禅をし、精神統一をする事も必要です。

 

礼儀だけではなく、霊性だけでもなく、座禅をすることです。霊性だけで、他の霊性に合わせようとするから、おかしくなるのです。霊性、ナーディも含めです。

 

宗教もそれぞれ教えがありますから、あとは何をとるかです。