今日もまた、密教で思うこと。

大乗と

は、大乗仏教の教えと縁があり、その思想をよく理解して、実際にその修行を実践したいと念願し、またそうする能力を備えている者を、大乗種姓という。こうした資質は、大乗仏教の様々な教えを学び、衆生に対する慈悲の心を高めていけば、いつかだれでも手にすることができる。そうした大乗種姓の修行者が実際に菩提心を発したら、その段階で本物の菩薩となる

 

とあります。しかし、なぜ大乗という定義を知らないと出来ないのかよく理解できません。普通、仲良くしなさいと子供のころから教わりました。今までは密教が流行ってなかったですが、でも普通は友達になります。しかし、そのことが分からずに、色々な問題が起こります。要は自分と他人の関係の協調性がないのかもしれません。誰かがというのも良くないし、また親分肌の子供たちも少なくなっているのではないでしょうか?要はしつけです。また心が殺伐としているところもあるに違いありません。

 

でも以前密教を大乗と聞いたことがありますが、そうは思いませんでした。なんだかんだ言って、17年近くになると思いますが、間違ったやり方なので、経済も精神的(文化)も悪くなっています。このままではとお見ます。またより優れた人材を選ばれることもありますが、ここでは、社会ということもあります。お互いの関係があって成り立つこともありますし、良縁が良縁を呼び幸せになります。しかし、この良縁を恋愛にとらえたりしたら、開運はしないでしょう。自分の幸せの道を閉ざしていますから、仕事においても、紹介はなくなるし、すべて同じことです。

 

人から教えてもらうということがおかしくなってきています。これも間違った密教のせいで、心の思いやりが執着になっているのです。もしその人が最初から17年前の心であったなら、その人は同じ条件ではたして、恋愛に堕ちていたでしょうか?と思います。私は、堕ちていないと思います。きっとその人はふられることでしょう。それだけ、心が殺伐としている世の中だと思います。人を馬鹿にする人が多いからではないでしょうか。それは自分に対するクフ(恐怖心)ではないと思います。デリケートだからこそ、起こりうる心であり、弱さではありません。というと慈は愛・悲は哀れみですので、その心が1つとなって、慈悲ですので、決して弱さではないと思います。繊細だから、わかるということです。繊細だけではなく、大乗として、慈(愛)要は縁起というか、友達が大切になります。

 

人間一人では生きていけないということです。これでは世俗といいますが、社会というべきでしょうか?そして勝義(空)があるのですから、そのつながりを大切にしていかないといけないと思います。ここで密教とはテゥモの修行なので、また、縁が変わりますが、自分が嫌いな人とやっても悪運になるだけです。結局自分が幸せになりません。

 

小乗が決して密教に向いているとは言えません。そこには顕密といって、大乗があってこそ、密教修行ができるということです。ブッタは最初に我独尊とかいいいましたが、それは結局自分に帰ってくることであり、自分しかいないんだということだと私は思います。小乗は菩提心がありません。大乗は菩提心が前提になりますので、自分を言う意味をお分かりでしょうか?全て自分の中に包含されており、そして、どんなに優れていても、結局は自分なんだという感じです。