またまた密教の在り方と自分について。

密教とは

本来、時代によってあり方が違います。が密教の教えは変わっていません。要はナーディ・風・ティクレ・チャクラ・テゥモのことを言います。テゥモを上げることによって、自分の潜在意識が分かります。要は無意識・無無意識の修行のことです。自分の見えない意識をどう修行するかということです。ので、ここでは心といいますが、心で会話など成立しません。よって無が正しいわけです。

 

そして、空に至ることは、密教の修行をしなくても、いたれる必要があります。それが最初の肝心なことです。要は縁起によって関係する空とでもいいましょうか?そして、顕教といって大乗のことです。顕教と密教の2つがあってうまくいくということです。ですから、今はやりで色々な教えがありますが、小乗では密教はできないし、また密教を大乗と言っていることも間違っています。空といえば、無論、縁起もそうですが、因果関係、また菩提心など含みます。

  • 菩提心とは、簡単にいえば、相手を思いやる心です。難しい事をいえば、世俗菩提心と勝義菩提心とあります。世俗菩提心とは、簡単にいえば、一般的な思いやりのことです。勝義菩提心と、空からみて、慈悲のような心です。慈とは、愛で、悲が哀れみのことです。そして究極的な心の修行とは、自己愛着を滅することです。しかし、この自己愛着とは、発菩提心の最大の障礙と位置づけられる。また小乗は菩提心がないので、また煩悩を伴わない自己愛着を何らかの縁により、いつか克服したとき、阿羅漢(小乗)は菩提心を発して、大乗の道に入ります。

 

ので、密教ほど遠いものはありません。今まで色々な霊性が分かることをつながないでいた人は、ある程度自分の肯定するところまで分かりますので、後は自分が疲れたかどうか、自分の気持ちに素直になったほうがいいです。疲れたらやめるということもありますので、今日はそこまで、ということです。そして、必ずいつもの修行、瞑想・禅や浄化をしていくことが必要です。そうすれば、業にもならないときもあります。

  • これは、業をうけたとでもいうのでしょうか?修行ですね。また業の潜在余力が蓄積される拠りどころ、(業の担い手)は、一般的に考えれば、過去から未来へ相続される識の流れである。またこれを単なる私ともいいますが。

 

ですから、霊性でいじめられたら、仕返しをしたほうがいいと思います。泣いていても仕方ない。正しい密教は無でテゥモをやっているので、会話は成立しません。本来なら、抜かれることなどないはずですが、今は色々な人がやっていますので、業も違います。無意識界、無無意識界とは別の次元で薫習とありますが

  • 薫習も、習慣化の力が、匂いがしみ込むように徐々に蓄積していくことをいう。例えば、物を盗んだ場合、盗んだ行為をやめても盗む以前の状態に戻ることがないように、その行為や思考パターンが蓄積されていくことを薫習という。

 

ですから、その人の業でないのに、自分が苦しむ必要はありません。ましてや、なんだかカルマおとしと言われているみたいで、話になりません。要は浄化をすることです。お風呂に入ったり、また、具合が悪い時は、梅干し・にぼし・お味噌をとるといいです。体の気も生きていますので、エネルギーとして必要です。お風呂は少し熱めのほうがいいですが、半身欲でも汗をかくことも必要です。とにかく、現象で、けがをしかねません。毒素をだすというべきでしょうか?体も悪いものがたまると毒素を出すように、浄化もしないといけません。そうして、禅をすると、自分か自分でないか言っていることが分かります。まずは体を調えることです。そうすれば、自分のことも少しはわかるようになり、自分の欠点も含め、性格を認識できます。でも、密教はその欠点でさえも、+になることがありますので、またいやがらせしてしまえばいいと思います。それが自分ですから、。

 

人生の長いスパーンでみると、以外に欠点で助けられる状況もありますので、こういうと年がわかりますか?そうすると、体の風が感じられるようになります。次は呼吸かな。呼吸を調えるということです。人の気配とでもいうべきでしょうか。これは武士道みたいですが、体温を感じるということに近いと思います。熱気かな。これだけで、気が上がることもありますので、自然の大気には感謝しないといけませんね。

 

今, はやりの奇病でさえ、それが原因となっていることが多いです。私から見れば、要は、新道での在り方とナーディの在り方が、ぐちゃぐちゃになっている状態です。たぶんそれは念で下げられていることだと思いますので、血管も浮くわけです。

最初は足を上げて寝ることが必要です。そうすると、風を感じることができるようになりますので、それからです。そして根本的な解決はお医者様ですね。またそれぞれの体の体質があるように、空の在り方のタイプがあります。これは性格かな。だから、それがよしとしても、はたして、その人があっているかといえば違います。それこそ同性愛になってしまいます。要は、病気として症状として表れているのですから、まだ新道や仏教です。ので、心を新たにして、毎日を生活すれば病気もそうですが、改善しますよ。ということで、霊性の部分では、自己を見つめる心が多くの人に備わっているのですが、それを利用して、心やチャクラ、アーラヤ識、マナ識を壊そうとしています。そしてナーディに変えて、体でやっています。まさに空もそうです。

 

   ですから自分で瞑想・禅をしていけば、自分を知ることができますので、そう相手やキリスト教に落ちることはありません。そしてその自分を見つめる心を利用しますので、人のせいにしてもかまわないということです。結局は密教ですので。縁起かな。そうして、同性愛にしたりするので、気をつけたほうがいいと思います。そして、ときには、現実で、きちんとしたしつけを自分で気をつけるというとですね。でも、それは社会としての在り方としては当然です。